世界遺産「高野山奥の院」に、お墓を建てられます。
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お墓アドバイザーの伊藤文絵が、 創業者の想いを、永遠に残すお手伝いをさせていただきます。
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【4】世界遺産「高野山」について
【4】ー1 高野山とは
真言密教の聖地、高野山。
標高約900mの8つの峰に囲まれたこの地に、空海によって真言密教の修行の根本道場が1200年以上も前に開かれました。
高野山には117ヶ寺あり、それらを総称して金剛峯寺といいます。
勘違いしている人も多いのですが、実は「高野山」とういう名前の山はありません。
一般的に見ると、車やケーブルで険しい山を登ってきて、山に入ると突然、道路には車が走り、商店もあり、学校もあり・・・
普通に人が暮らしている町が現れてくるのでびっくりするかもしれません。
長距離、山を登ってきたはずなのに、登り詰めた途端、山が消えてしまうのです。
転軸山や摩尼山など標高約千メートル級の八つの山に囲まれた場所を指し、山頂の東西60km、南北30kmの盆地のことを「高野山」と呼んでいます。
それは、空から見れば蓮の花が咲いたような土地で、マンダラの八葉蓮台のような形で縁起が良いとされています。
山を上り詰めた先にある「すり鉢状の街」なのです。そこが、高野町です。
天国に近い街にも見えます。
高野山は非日常な空間であり、感性を研ぎ澄ましてくれる場所です。
紀伊半島の穏やかな太陽と、豊かな森と川。
そして、都からも、世俗からも完全に離れている距離感などからみても、聖地と呼ばれるにふさわしい場所です。
【4】ー2 高野山開祖の歴史
では、空海はなぜ、高野山を選んだのでしょうか?
それは、空海には入唐前の空白の7年間があります。その間、高野山に足を踏み入れて修行をしていたからというのもあるでしょう。
一方で次のような伝説もあります。
空海が修行を終え、唐から日本へ帰国する時、日本での密教布教実現のために、明州の港から「根本道場の地を教えたまえ!」と祈願して、手にしていた三鈷杵を日本の方角である東に向かって投げました。
帰国した空海が修行の地を探して紀伊国あたりの山々を廻っていると、そこで大きな犬を連れた猟師に出会い、高野山に導かれます。
すると、目の前の松の枝に、明州から投げた三鈷杵が引っかかっていたのです。
実は、その猟師は高野山の自主神である「狩場明神」であったと伝えられています。
【4】ー3 高野山は神仏習合、宗旨宗派、皆平等の考え
現在も高野山には狩場明神と丹生明神が大切に祀られています。
また、その時の三鈷杵が引っかかっていたと言われる松は、高野山壇上伽藍の御影堂の前にあり「三鈷の松」と呼ばれています。
高野山は、神仏習合されている聖地であるとも言えます。
高野山の中心である壇上伽藍に神道の神を祀り、「神道と仏教の習合」を果たした弘法太師。ここに、今に続く神仏を大切にする日本人のこころの源泉があり、他の宗教を受け入れて習合するという日本文化の素晴らしさがあります。
戦国大名の立派なお墓の前には、鳥居があります。
浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のお墓も、高野山奥の院にあります。
高野山にある大名墓のほとんどは、地位・権力の象徴であり、全骨を納骨されている大名はあまりいません。
【4】ー4 世界遺産登録への道のり
平成16年、「紀伊山地の霊場参詣道」として、丹生都比売神社と金剛峯寺を含む、 紀伊山地一体がユネスコの世界遺産に登録されました。
その理由としては、「神道と仏教のたぐいまれな習合」が挙げられています。
世界の人から見たら、異教同士が習合して発展していくという姿は「たぐいまれ」に 映ることでしょう。
今、世界中で宗教紛争が起き、国家単位で異教徒弾圧が叫ばれている中、高野山と 丹生都比売神社の関係を知ることは、世界平和に大きなメッセージを持っていると 言えます。
【4】ー5 世界遺産「高野山」の正しい認識
世界遺産としても誰もが、その「高野山」という名称は知っていても、実際にどの部分が 世界遺産に登録されている土地なのか?
と、なると、あの辺一帯と思われている人も多いでしょう。
いいえ、違います。
弘法太師(空海)は平安時代の僧侶ですが、迷える者、苦しむ者を救うため今も生きたまま、奥之院御廟から見守っていると言われています。
高野山の入口にある大門から、弘法太師が、御入廷されている奥の院までの参道の脇にある戦国武将の供養塔の立っている墓地が「世界遺産」として登録されています。
奥之院は、入口である一の橋から、約2km。
樹齢千年を超える杉並木も多い中、20万基とも言われる墓石群が並び、法然上人や親鸞聖人などの大宗教家のお墓、織田信長、明智光秀、武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉などの戦国武将のお墓や慰霊碑・供養塔などがあります。
敵・味方をこえて、お太師様のそばに「在り続けたい」という想いの寛大さが高野山の魅力であり、弘法太師が宗旨宗派に関係なく信仰される理由なのでしょう。
この度、販売するに至った總持院6号聖地は、世界遺産に登録されている奥の院表参道筋に 位置し、武田信玄供養塔や、太師の腰掛けのすぐそばにあります。
ですから、紛れもなく「世界遺産のこの地に、あなたの生きた証」・「世界遺産のこの地に先祖代々を刻む」というわけです。
観光客が写真をとって、ブログなどの載せている企業のお墓がある場所は、裏参道ですので、正確には、世界遺産認定を受けている聖地ではありません。
現地見学をすると、その情緒の違いはわかっていただけると思います。
東日本大震災では、数百億円というお金をかけて作られた堤防さえ、簡単に流されました。
その一方で、小さな島がビクともしなかった現実があります。
人の頭で人工的に作り上げたものより、地球に大地に根ざしているものこそが、本物であると思わずにいられません。
高野山の寺院も山火事に見舞われ、修復を重ねてきましたが、1200年続く歴史は今も昔も変わりなく伝えられています。
【4】ー6 高野山・町石道の説明
高野山への道標(道しるべ)として、1町(約109メートル)ごとに「町石(ちょういし)」と呼ばれる高さ約3メートル強の五輪卒塔婆形の石柱が建てられ、高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4キロメートルの道中に36基の、合計216基の町石が置かれています。
慈尊院から数えて36町(1里)ごとには、町石の近くに「里石(りいし)」が合計4基置かれています。
町石は、弘法大師が開山した平安時代の頃は木製の卒塔婆だったと言われており、風雨にさらされるなどして老朽化したため、鎌倉時代の文永2年(1265年)頃に遍照光院の覚きょう上人が石造の町卒塔婆建立を発願し、20年の歳月をかけて弘安8年(1285年)に完成しました。
現在でもその8割以上にあたる150本の石柱が建立当時のまま残り、今なお昔日の面影を伝えています。
かつては高野巡礼の人々が、町石のひとつひとつに手を合わせて礼拝しながら登ったと言われていますが、現在では道も整備され気軽に歩けるハイキングコースともなっています。